言語によるコミニュケーションって実はかなり曖昧だと思う
言語によるコミニュケーションが曖昧だと思う理由
自分が的確に言語化出来ているとは限らない
つい自分を中心に考えがちですが(自己中心的という意味ではなくて)、
自分の認識している感覚が標準かどうかはわかりません。
自分が使っている言葉はこれまで生きてきた積み重ねで、
知らない言葉は使えません。
その上で自分の知っている言葉だけで自分の思いや感覚を、
意見や主張として組み立てて使っています。
その言葉自体も、
最初に知った時に、そして今まで見聞きしている中で、
本来の意味どおりに認識しているかどうかは分かりません。
思い込みは本当にこわい。
そしてその曖昧なまま自分はその言葉を使い、
自分の外に出ていっています。
相手が自分と同じ認識とは限らない
前述の通り、
「暑い」という言葉の温度感、
「硬い」という言葉の硬さ具合、
「優しい」という言葉に込めた思い、
「よくない」という言葉に込めた許容度など、
自分が言葉に込めた感覚は自分だけのものです。
相手は相手で相手の感覚でその言葉を使い、認識をしています。
言葉はあくまで言葉だけで、その他の情報を持つことは出来ません。
当然言葉を発した側と受け取った側で認識のズレが出ます。
これは会話でも文字でも同じだと思います。
実はコミニュケーションが成り立っていない?
そう思っておいたほうがいいと思います。
そうでないとまさにボタンの掛け違いになり、
コミニュケーションをすすめるほど認識の乖離がひどくなります。
コミニュケーションにおいてできること、やるべきこと
常に「自分は正しく表現できているのか」「相手はどう思っているのか」を考えることが重要だと思います。
特に後者の「相手がどう考えているのか」、
これを常に意識する必要があります。
よくコミニュケーション関連の話題で「相手の立場になる」というワードが出てきますが、
まさにそのとおりです。
それが明らかにできていない人との会話は文字通り「会話にならない」と感じます。
こちらがいくら説明をしても自分の感覚でしか受け止めようとしないので、
いくらこちらが表現を工夫しても本当に伝わらない。
そして「相手がいまどのように認識しているのだろう」と探っている時間は決して短くないし、
適切なコミニュケーションを行うためには本当に不要な時間となってしまいます。
家族や友人同士の会話であればほとんど気にすることなく、
それも含めて楽しめばいいと思います。
ただビジネスのように可能な限り正確な認識共有が必要な場合においては、
重要な問題になってきます。
3人以上の会話の時、自分以外の人の会話を観察していると、
「今かみあってないな」「Aさんはこう言っているけどBさんはこう認識しているな」とたまに気づくと思います。
このように俯瞰してみるとわりと気づきやすい。
でも自分が喋っている時はとたんに認識が甘くなります。アウトプットに意識を持っていかれるからでしょうか。
それだけにより気をつける必要があります。
これは動画やブログや音声などのコンテンツ配信にも言えるかもしれませんね。
発信者と受け取り手での認識違いが溢れかえっているように思います。
みんなが相手のことを考えられるようになれば、この情報過多な社会において、
思い違いの少ない今より少し平和な世の中になるかもしれませんね。