なお
2021.10.05

頭の中って難しいけど本当は一番考えないといけないところ

目に見える表面的なところだけを考えがち、表面的なところだけで判断しがち

当然といえば当然だけれど、
社会生活において、コミニュケーションにおいて、
目に見える行動や言動などでまわりの人を判断しがちですよね。

でも本当に大切なのは何を考えているのか、どう考えているのか、
頭の中がどんな状態なのか、クリアなのか、ごちゃごちゃしているのか、
育ってきた環境で、現状の環境で、一時的なトラブルで、その人がどんな常態かはわからない。

今のその人がその人の100%か本質かも分からない。
成長過程でどんどん変化をしているその途中かも分からない。
1年後、5年後はまた全く違う価値観かもしれない。

ここではこれらを全部把握するべき、といいたいのではなく(そもそも不可能)、
上記の可能性を前提にコミニュケーションをとるべきだと表現をしたいです。

すぐにシンプルな型にはめて人を判断しようとしたりしてしまいますが、
個人や環境によってあまりにも多様なため、本当はそんなことはできないはず。
できている気がするだけ。

あまりにも考えようとするということがされていないように感じます。
それは当然そのような教育やトレーニングにあたるものを経ていないからだと思います。

こういうものこそ社会に出る前の学校教育で平等にトレーニングするべきところ

四則演算等の基本的なスキルは当然重要なので、
小学校等の義務教育からは外せません。

ただあまりにも「考える力」が放棄されているような気がしてなりません。
目に見えるスキルについても、そのヒトがどう理解をしてどう使うのか、
理解できない人はなぜ理解ができないのか、
全てはその人について考えないと分かりません。

でもその時のその人に対する判断基準としては、
他の大勢も含めて同じ能力をベースにして判断をされている気がします。

そしてないがしろにされたままスキルだけを身につける教育を経て社会に出て、
他の人との違いに苦しむ生活を送ることもあるでしょう。

その身に付けるスキルについても、確実に不要なものもあります。
これまでやってきたからこれからもやるという思考停止をしている学校教育の中においては、
上記の希望を満たす変革は難しいのかもしれません。

大衆が考える力を持つと不都合であればその社会構造が間違っている

そもそもこれまでの学校教育はこれまでの日本社会に適した人材を育てるものと認識をしています。

ただテクノロジーを始めとする社会環境があまりにも急速に変化をしていて、
にも関わらずそれについていけていない日本社会と学校教育があります。

経済を回す上で、判断力の高い大衆が増えると困るかもしれません。
「勤労が国民の義務」と声高らかに唱えている国からしても不都合が多いかもしれません。

まずはその社会構造をみなおすところから初めて、
ぜひ学校教育においても個人の考える力を養えるようゆっくりでもいいので変化をしてほしいです。

まずは自分にできることとして、
ブログやマンガを通じて自分の考えを発信、記録をしていきます。