なお
2021.10.20

生きやすいのか生きにくいのか|「社会不適合者」という言葉をもとにこれからの時代に対して思うこと

社会不適合者の「社会」とは

社会に馴染めなかったり協調することができなかったりする人を「社会不適合者」と呼ぶようです。

「不適合」と聞くととても悪い印象があるのですが、
そもそも社会ってなんでしょうか。
自分は田舎暮らしを中心としたコンテンツを作っている手前、
その考え方をもとに考察したいと思います。

原始的な生活を思い浮かべてみる

人間は知能を持って文化・文明を成長させて今に至りますが、
本来の哺乳類の姿としては猿のような生活が本質的だと思います。

獣や植物を食べて飢えや寒さ、外敵から身を守って日々生きていくということですね。

自分も含めて現在「社会不適合者」として区別をされるであろう人が、
この原始的な生活を送っている状態でも社会不適合でしょうか。

おそらくですが違うと思います。

仮にチームプレイができないとしても、
一人で確保できる食料だけを確保して生きていくことはできるはず。

そこにさほど生きづらさは感じないと思います。

人間が自ら作った「社会」という枠に対して適合できているか否か

社会不適合者とは文字通り社会に適合できない人を表していると思うのですが、
そこには良いも悪いもないはず。

むしろ社会という後付の仕組みの中で勝手に判断をされるだけなんだか理不尽ですよね。

生まれてから周辺環境での生活や学校教育を通じて、
その社会に適合する人間を育てようとしているということはむしろ不自然に感じます。

原始的な社会においては個人の差はさほどなかったはずなのに、
この社会という構造のおかげで個人の差が大きくなっているだけ。

そしてそこに適合出来ない人が生きづらい世の中になってしまっている。

むしろ社会不適合者の方が本質的な生き方をしているとも

ということは社会という構造に馴染めなかった人はむしろ本質的な生き方に近い生き方をしているだけなんじゃないかと思います。

不適合と聞くとまるではみ出しているようなのですが、
むしろ「本質的な生き方からはみ出している人が大多数いる」という見方もできそうです。

社会という構造が多くの人をコントロールしているともとれます。
もちろん社会にとってはその方が都合がいいから。

個人の発信力がますます強くなるこれからの時代に向けて

個人の発信力という表現が正しいかどうかはさておき、
こと資本主義経済においては今後ますます個人で生きやすくなっていきそうです。

そうすると既存の社会という枠組みがどんどん不要になり、
多くの人は生き方、考え方の変更を余儀なくされるかもしれません。

現在で言われている社会不適合者の方が、
おそらくより生きやすい世の中になっていくのではないでしょうか。

そうすると前述の「本質的な生き方からはみ出している人が大多数いる」という、
その今の社会の枠組みに適合している人が「目を覚ます」ことが求められます。

ただ社会不適合者と表現している通り、
適合している人の方が正常という価値観が前提になっているため、
「目を覚まさなければいけない」という発想にはなりにくそうです。

世界の構造の変化に鈍感になってしまうとまさに茹で蛙のになるので、
常に本質はどこかということを意識し、情報を得続けなければいけません。

ある意味で弱肉強食な原始的な社会ですね。